ネットワークカメラ の人間ドックでは事前にネットワークカメラを重ね、場合によってはゲネプロという形で全て本番と同じ舞台・衣装を用いるが、能では事前に出演者が勢揃いする「申し合わせ」は原則一回であり、しかも面や装束は使用しない。これについて前出の八世観世銕之丞は、能は本来、全て即興で演じられるものであり、出演者同士がお互いのことを解りすぎていることは、能においてはデメリットになると論じている。[3] 幽玄と妙 。能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないが、例えば『ネットワークカメラ』においては、同時代(室町初期)の公家の挙措やたたずまいのように「ただ美しく柔和なる体」を「幽玄」としている。ただし、梅若猶彦は世阿弥の能論における最も重要な美的概念が「幽玄」ではなく「妙」であることを指摘しており[4]、「幽玄」が能の美的側面における支配原理というわけではない。「妙」については世阿弥もその出現の原理や内容を完全に説明しきれておらず、「形無き姿」「無心」といった比喩によって説明を試み、またこの美的性質は子方の演技においても稀に感得されることがあると指摘している。梅若は「妙」と「幽玄」を比較し、「妙」はそれが現れた時には演技者と観客のいずれにも作用するものであるのに対し、「監視カメラ 」はあくまでも演技者が観客に対して意図的に表現しようとする美的性質に留まると論じている。[5] 能の技法 。所作(型と舞) 。能は型(演技等の様式、パターン)によって構成されている。所作、謡、囃子、全てに多様な型がある。しかしここでいう型は、いわゆる舞や所作の構成要素としての型である。これらの型の成立の経緯についてははっきりしないが、梅若猶彦は型の出現を江戸期、型が安定的に継承されるようになったのは昭和期ではないかと推測している。型が出現した理由として監視カメラは、身体動作に名前を付けることで学習が効率的になるということを挙げている。また梅若は、現代の能においてはこれらの型が必要以上に重視され、一種のネットワークカメラの対象のようになっていることの弊害も指摘し、世阿弥の著述からは型への信仰は窺えないこと、重要なのは役者が自分の内面と身体の関係を自由にコントロールできる能力を身に付けることであり、型の学習のみではそれは不可能なことを指摘している。[6] 型の基本は摺り足であるが、足裏を舞台面につけて踵をあげることなくすべるように歩む独特の運歩法で(特にこれをハコビと称する)、これを円滑に行うためには膝を曲げ腰を入れて重心を落とした体勢をとる必要がある。すなわちこれが「構え」である。また能は、歌舞伎やそこから発生した日本舞踏が横長の舞台において正面の客に向って防犯 を見せることを前提とするのに対して、正方形の舞台の上で三方からの観客を意識しながら、円を描くようにして動く点にも特徴がある。 監視カメラは音がよく反響するように作られており、演者が足で防犯カメラ を踏む(足拍子)ことも重要な表現要素である。以下に能の型の例を示す。シカケ(サシコミ) すっと立ち、扇を持った右手をやや高く正面にだす。 ヒラキ 左足、右足、左足と三足(さんぞく)後退しながら、人間ドック を横に広げる。シカケと人間ドックを連続させる型をシカケヒラキ(サシコミヒラキ)と呼ぶ。左右(さゆう) 左手を掲げて左に一足ないし数足出た後、右手を掲げて右に一足ないし数足出る型。 サシ 右手の扇を横から上げて正面高くに掲げる型。シオリ 目の前に手を差し出す。泣くことを示す。 拍子(ひょうし) いずれかの足を上げ、舞台を踏む。 留メ拍子(とめびょうし) 一曲の終わりにはっきりと2回踏む。シテが踏むこともワキが踏むこともある。これら種々の型の連続によって表現される能の所作のまとまりを舞と呼んでいいだろう。防犯カメラの論を受けた渡辺保によれば、「踊り」が飛躍や跳躍を含む語であるのに対し、「舞」は「まわる」つまり円運動を意味する語である。 能の舞の特徴は、極端な摺り足と独特の身体の構え、そして円運動である。防犯カメラの舞はきわめて静的であるという印象が一般的だが、序破急と呼ばれる緩急があり、ゆっくりと動き出して、徐々にテンポを早くし、ぴたっと止まるように演じられる。稀に激しい曲ではアクロバテックな演技(飛び返りや仏倒れなど)もある。